企業におけるAI活用が浸透してきたのと同時に、学校や大学をはじめとした教育機関でも、AIの利用が少しずつ日常的なものになり始めている。
それでも教育の現場では今なお、
- 「AIを使って課題を解いてよいのか」
- 「レポートの作成にAIを使うことを認めるべきか」
- 「どこまでを本人の成果として評価するのか」
といった議論が残っている。
一時期に比べれば一服感はあるものの、完全に決着したとは言い難い。
ただ、おそらく数年後には、この議論自体がほとんど意味を持たなくなっているのだと思う。
今の時代、授業の課題について、「インターネットで調べてもよいですか」と真剣に確認する人はほとんどいない。
もちろん、試験中の利用や出典の明示、成果物の評価方法といったルールは必要だ。しかし、情報を探し、整理し、考えるための道具としてインターネットを使うこと自体は、すでに前提になっている。
AIもいずれ、同じような存在になるのだろう。
だから今回は、AIを使ってよいのか、使ってはいけないのかという議論ではなく、その先の話をしたい。
AIを使うことが当たり前になったとき、私たちは何を学ぶべきなのか。
知識を得ることには、どのような意味が残るのか。
大学をはじめとする教育機関は、何のために存在するのか。
そして何より、その前に一つ聞いてみたい。
AIを使って、何がしたいんですか。
AIで成果物を出せることと、理解して使えることは違う
文章を書く。データを分析する。プログラムを作る。調査する。
これまで時間がかかっていた作業を、AIは驚くほど短時間で進めてくれる。
ただし、以前の記事でも書いたように、AIを使って成果物を作れることと、原理を理解した上でAIを使うことには、大きな差がある。
完成した成果物だけを見れば、両者は同じように見えるかもしれない。
- しかし、前提条件が変わったときに修正できるか。
- 出力の間違いに気づけるか。
- 別の課題へ応用できるか。
- 何を採用し、何を捨てるべきか判断できるか。
成果物の完成時点では見えなくても、その後の応用力や判断の質には明確な差が出る。
AIによって知識や専門性が不要になるのではない。
むしろ、AIがもっともらしい答えを大量に出せるようになるほど、それを受け取る側には原理への理解が求められる。
AIを使うときに混同されやすいこと
- AIを使えることと、AIを使って正しい判断ができることは、同じではない。
大学の価値とは何なのか
この話を考えていると、大学の価値とは何なのかという問いに行き着く。
大学には、もともと複数の役割がある。
- 知識を継承すること。
- 研究すること。
- 専門家を育てること。
- 人的なネットワークを作ること。
- そして、社会や企業で働くための準備をすること。
特にアメリカでは、高額な学費や留学に伴う大きな支出を、卒業後の進路や所得、キャリアの選択肢が正当化している側面が大きい。
日本から海外の大学やMBAへ留学する場合も、知識だけを買いに行っているわけではない。
キャリアの選択肢、人的ネットワーク、大学のブランド、卒業後の機会まで含めて、その投資を正当化している。
また、大学が企業や専門職へ人材を送り出す、職業訓練的な役割を持ってきたことも事実だと思う。
私自身、その価値を否定するつもりはない。
ただし、大学の存在意義が、就職や所得向上だけで説明できるとも思っていない。
知識を得るだけなら、以前より安くて便利な手段はいくらでもある。
職業技能だけなら、大学よりも短く、効率的に学べる場所もある。
それでも人が同じ場所に集まり、異なる背景を持つ人と学ぶ意味は何なのか。
そこに、大学のもう一つの重要な価値があると思う。
大学が重視すべきなのは、チームで価値を生み出す力ではないか
社会で成果を出す仕事の多くは、一人では完結しない。
企業経営も、研究も、医療も、行政も、ものづくりも、複数の人間が協働して進める。
にもかかわらず、学校教育では個人の知識、個人の試験結果、個人の成績が評価の中心になりやすい。
しかし、社会で本当に難しいのは、知識を一人で持つことではない。
- 異なる専門性を持つ人と議論する。
- 自分の考えを言葉にする。
- 相手の意図を理解する。
- 意見が対立しても前へ進める。
- 必要に応じてリーダーにもフォロワーにもなる。
- そして、一人では到達できない成果を、チームで作る。
私は、大学が最も重視すべきことの一つは、ここだと思っている。
知識を持っているだけでは、チームでは機能しない。
自分の専門性を相手に伝える力がいる。
相手の専門性を理解する力がいる。
自分の考えを押し通すのではなく、全体として何が最善かを考える力がいる。
大学の価値は、人と共に学び、チームで価値を生み出す訓練ができることにあるのではないか。
AIが一人でできることを増やしていくほど、人間が集まる場所の価値は、むしろこの部分へ移っていく。
教わることは、あくまできっかけにすぎない
ただし、学校や大学に通えば、自動的に専門性が身につくわけではない。
人から促される教育が与えられるのは、入口までだと思う。
- 授業を受ける。
- 課題を与えられる。
- 先生から知識を教わる。
- 興味を持つきっかけを得る。
そこから先、本当に専門性を磨くためには、自ら探究しなければならない。
- なぜそうなるのかを調べる。
- 教わった範囲を超えて学ぶ。
- 失敗した理由を掘り下げる。
- 他の領域へ応用できないか考える。
つまり、自分の意思で原理を理解しにいく必要がある。
教わる教育はきっかけであり、本当の学びは、自ら探究し始めたところから始まる。
原理を理解するから、AIの出力を判断できる。
専門性があるから、前提が変わっても応用できる。
自分の軸があるから、異なる専門性を持つ人とも協働できる。
教育機関は専門性を完成させる場所ではなく、専門性を自ら磨き続ける人を生み出す場所なのかもしれない。
知識を得ることも、お金を稼ぐことも、まだ個人の幸福の話である
知識を得たい。良い仕事に就きたい。収入を増やしたい。自分のやりたいことを実現したい。
どれも自然な欲求だと思う。
否定する必要はない。
ただ、その多くは、マズローの欲求段階で言えば、基本的には個人の充足や幸福の話でもある。
では、専門性を身につけ、AIを使いこなし、チームで成果を出せるようになった人は、その能力を何のために使うのか。
知識を得る。仕事で成功する。お金を稼ぐ。自分の望む人生を手に入れる。
そこで話を終えてしまってよいのだろうか。
個人として成長したその先に、社会に対して何を返すのかという問いが残る。
優秀な人ほど、より大きな責任を引き受けるべきではないか
アメリカにいた頃、出典はもう正確に覚えていないが、オバマ大統領が、能力や機会に恵まれた人が、人より多く働き、より多く納税し、社会へ多くを返すのは自然なことだ、という趣旨の話をしていたことが印象に残っている。
正確な引用ではなく、当時の私が受け取ったメッセージである。
私は、この考え方を擁護する側だ。
能力は、自分の幸福を最大化するためだけにあるのではない。
知識も、専門性も、収入も、社会から完全に独立して生まれるものではない。
教育を受けられる環境があり、過去の知識が蓄積され、誰かが研究し、企業や社会が機会を提供しているからこそ、自分の能力も発揮できる。
であれば、多くを学び、多くの機会を得て、大きな成果を出せる人ほど、その能力を社会へ返す責任も大きくなる。
全員が同じ量を背負う必要はない。
しかし、能力がある人、機会に恵まれた人、より多くを生み出せる人が、より大きな責任を引き受けることは、不自然なことではないと思う。
その能力を、誰のために使うのか
AIを使って何がしたいのか。
知識を得て何がしたいのか。
大学へ行って何を身につけたいのか。
最初の問いは、最後にはこう変わる。
その能力を、誰のために使うのか。
大学をはじめとした教育機関が重視すべきなのは、知識を記憶させることだけではない。
AIの操作方法を教えることだけでもない。
教育機関が育てるべき人
- 探究心を刺激し、自ら原理を理解する人を育てる。
- 異なる人と協働し、一人では生み出せない価値を作れるようにする。
- そして、その価値を自分だけではなく、社会へ返そうとする人を増やす。
ここまで大学を中心に考えてきたが、この話は大学だけに限らない。
小学校も、中学校も、高校も、専門学校も含めて、教育機関全体に関わる話だと思う。
ただし、人を育てる責任を教育機関だけに負わせるつもりもない。
社会に出た後は、企業もまた、人が専門性を磨き、他者と協働し、その能力を社会へ返す機会を作る必要がある。
教育機関が学びの入口を作り、企業や社会がその続きを引き受ける。
人の成長は、学校を卒業した瞬間に終わるものではない。
おわりに|教育機関は、社会へ価値を返せる人を育てる場所である
AIは、一人でできることを増やしてくれる。
だからこそ、人間には、自ら問いを持って専門性を磨くことと、異なる人と協働することが、より重要になる。
しかし、それだけでもまだ足りない。
専門性も、判断力も、チームワークも、最後は何のために使うのかが問われる。
教育機関とは、個人を優秀にするだけの場所ではない。
自ら探究し、原理を理解する。
異なる人と協働し、一人では到達できない価値を作る。
そして、その能力を社会へ返していく。
教育機関がそのきっかけを作り、企業や社会がその後の成長を支える。
その循環の中で、人は学び続け、身につけた能力を社会へ返していく。
大学をはじめとした教育機関の価値は、社会へより大きな価値を返せる人を育てることにあるのだと思う。
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